第6回 「既判力の『瑕疵治癒力』の問題と『無効な判決』の問題の関係性
第1回のブログを読んでくれた友人が、「既判力の瑕疵治癒力」の問題と「無効な判決」の問題の関係性について質問をしてくれたので、その点について補足しようと思います。
以前、第1回のブログで、既判力には二つの機能が存在することをお話しました。
すなわち、
① 判決主文と矛盾する主張を許さないという面(拘束力)。
② 判決が適法に形成されていないとの攻撃を許さない(無効・取消し原因があるとの主張を許さない)という面(瑕疵治癒力)
です。
ここで疑問が生じるのは、既判力には「判決が適法に形成されていないとの攻撃を許さない」との瑕疵治癒力があるのであるから、「無効な判決」であることの主張は一般論として封じられてしまうのではないか、という点です。
たとえば、「無効な判決」を招来する場面として、二当事者対立構造が欠けたにもかかわらず、判決を出してしまったという場合が有名です。
では、二当事者対立構造が欠けたにもかかわらず、判決を出してしまった場合、「無効な判決」であることの主張は既判力の瑕疵治癒力で封じられてしまうのでしょうか。
当然、そのようなことはありません。
あくまでも、判決が無効となれば、再審手続によらずして、請求異議の訴え等により無効を主張できるのが原則です。
言ってること矛盾してんじゃん!と思われる方は、以下の説明を読んで下さい。
まず、手続や判決内容に瑕疵のある判決であっても、いったん裁判官によって作成・言渡された以上、法的安定要求の見地から当然には無効とならず、当事者は上訴あるいは再審によってのみその瑕疵を争い得る、というのが瑕疵治癒力です。
しかし、手続上は有効に成立し存在している判決であっても、既判力などの内容上の効力を認め得ない場合が存在するのです。
公序良俗違反の判決、二当事者対立構造を欠く判決などがそれにあたります。
これは、既判力などの内容上の効力を「認めない」場面ではなく、「認め得ない」場面です。
つまり、既判力の「瑕疵治癒力」も既判力を「認め得ない」場面では作用しないのです。
このように考えれば、「当事者の意思表示に瑕疵があったこと」以外の事由による「無効な判決」であることの主張は、(再審の訴え)によらずして、当然に許されることになります。
一方で、実体法上の意思表示の瑕疵があったにもかかわらず出された判決は、既判力を「認め得ない」場面とまではいえないので、既判力が作用する場面となり、「瑕疵治癒力」の規範も及ぶことになります。
もっとも、第1回で述べたように、制限的既判力説はこの「瑕疵治癒力」を(請求の放棄・認諾の場面では)否定するわけですが、なぜそのような解釈をできるのかという点について説明をしておきます。
皆さんは、「既判力本質論」という議論をご存知でしょうか
「既判力本質論」とは、以下のような問題意識に対する回答です。
当然ですが、裁判官は神ではありませんから、裁判所の下した判決が、神の目から見た場合の真実の実体法の状態とは食い違った内容となってしまうことはありえますよね(ex.真実は、XはYに120万円貸していたのに、借用証書に100万円との記載があったので、裁判所としては「100万円の貸付けしかなかった」との心証を得て、100万円の一部認容判決をした。)。
しかし、判決の内容が仮に真実の状態に合致していなかったとしても、その判決が確定して既判力が生じれば、当事者及び裁判所はその判断に拘束されるのです。
その判断の内容が真実でないにもかかわらず、なぜ、かかる拘束力が生じるのか。その拘束力を正当化するためにはどういう説明をするべきか。
この問題に回答するための議論が「既判力本質論」です。
そして、既判力本質論には以下の二つの学説があります。
① 実体法説
既判力は実体関係に作用していくと捉える。したがって、「不当判決も実体法状態をその判決内容に応じたものに変える」と把握する。つまり、そのような和解契約が締結された場合と同視しようとするのである。
② 訴訟法説(現在の通説)
訴訟法説は、既判力を実体関係とは無縁の、「国家裁判権の判断の統一という訴訟法上の効果を持つもの」として把握する。すなわち、前訴の確定判決と矛盾する主張を取り上げてはならないと後訴裁判所に命じるのが既判力だとするのである。
まず、①実体法説によると、判決が確定すると、(たとえその判決の内容が真実と異なっていたとしても)当事者間でその判決の内容と同内容の和解契約が締結されたものと同視されます。
そして、この「和解契約が締結されたものと同視する力」が既判力の本質であると説明するのです。
一方、②訴訟法説によると、判決が確定すると、「裁判所の判断の統一」という要請から後訴裁判所は既判力の生じた判断と矛盾する判断をすることはできなくなります。
そして、裁判所に対する拘束力が生じたこととアプリオリに、当事者についても矛盾主張ができなくなる、と考えます。
この「後訴裁判所に既判力の生じた判断と矛盾する判断をすることはできなくする力」が既判力の本質であると説明するのです。
ちなみに、既判力には、積極的作用と消極的作用がありますが、実体法説は「消極的作用ありきの積極的作用」、訴訟法説は「積極的作用ありきの消極的作用」と理解可能です。
さて、現在は訴訟法説が通説なのですが、実は、一昔前までは実体法説が通説だったみたいです。
つまり、既判力は、確定判決の内容どおりの和解契約が締結されたものとして扱う力として捉えられていたのです。
ここで、和解契約にはどのような効力があったでしょうか。
「確定効」ですね。
民法696条を確認しましょう。
(和解の効力)
第696条 当事者の一方が和解によって争いの目的である権利を有するものと認められ、又は相手方がこれを有しないものと認められた場合において、その当事者の一方が従来その権利を有していなかった旨の確証又は相手方がこれを有していた旨の確証が得られたときは、その権利は、和解によってその当事者の一方に移転し、又は消滅したものとする。
つまり、和解契約が成立した場合には、その和解契約に定められた内容について、意思表示の瑕疵があったことを理由とする無効主張等が原則として禁止されるのです。
これが既判力の「瑕疵治癒力」の原型といえます。
そして、「確定効」は和解の内容とは区別された、前提問題の部分での無効主張を禁じていないことはご存知と思います。
既判力の「瑕疵治癒力」もこれとパラレルに考え、判決の形成過程(=判決内容の前提問題)での意思表示の瑕疵を理由とする無効主張は許されてよいと考えればいいのです。
「既判力本質論」は、「瑕疵治癒力」についての理解の手助けとなるだけでなく、反射効とも深く関わります。
すこし深すぎる議論と思われるかもしれませんが、知っていて損はない概念だと思います。
追伸
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