第10回 「弁論主義が適用される事実」Part.2
第1 導入
第9回で、「主要事実」の意義について説明しました。
主要事実とは、「権利の発生・変更・消滅という法律効果の判断に直接必要な要件事実に該当する具体的事実」でありました。
今回は、この主要事実の理解を前提にして、「弁論主義が適用される事実とは何か」、という点を考えようと思います。
第2 通説の論証
さて、受験生の皆さんが数万回と見てきたと思われる「弁論主義が適用される事実とは何か」という論点の論証を確認しておきましょう
《論証》
そもそも、弁論主義が適用されるのは、権利の発生・変更・消滅という法律効果の判断に直接必要な要件事実に該当する具体的事実に限られ、間接事実(主要事実の存否を推認させる事実)・補助事実(証拠の信用性に影響を与える事実)には適用がないものと解する。
なぜなら、①主要事実は訴訟の勝敗を決する重要な事実であるから、これにつき適用を認めれば弁論主義の機能を充足できるし、②間接事実や補助事実は普通の証拠と同じ機能を果たすにすぎず、自由心証主義(247条)の下では、裁判官の自由な判断に委ねるのが適当と解されるからである。
…はい。これ以上でも以下でもありません。この論証は絶対に覚えなくてはならないので、一応掲載しました。
第3 採用すべき学説
ところで、判例は、昔からかかる通説どおりの理解を貫いてきているのでしょうか。
結論から言うと、多くの判例は通説の理解にしたがって、弁論主義の適用範囲を把握しています。
しかし、判例の中には、「主要事実なら弁論主義適用、間接事実なら不適用」という基準に従っていないとみられるものが存在しているのです。
1 大判大5.12.23
まず、大判大5.12.23(百選4版49)をあげることができます。
この事案は、
XのYに対する建物所有登記の抹消登記手続請求事件について、Yが、Xが建物所有権を取得しなかったことを推認させる事実として、建物の家屋税をYがずっと支払ってきた事実(間接事実)を主張したところ、原審は「Yが家屋税を支払ってきた事実は明らかであるけれども、家屋税の事実上の負担者は、所有者とは別の事柄として、Yの前主たるAとXとの約定によってA(Y)とすることができる」とした、
というものです。
つまり、Yは、Xに本件建物の所有権がないことを推認させる間接事実として「家屋税はYが払っていた」ということを主張したのですが、裁判所は、当事者が主張していないのに「(所有権の帰属とかは関係なしに)Yが家屋税を負担する特約が存在した」という間接事実を認定したのです。
ここで、裁判所が認定した特約の存在は、間接事実を否定する事実であるから、これも間接事実(主要事実を「否」の方向で推認する事実)である点には注意してくださいね。
さて、裁判所が特約の存在を認定したとしても、それは間接事実にすぎないのですから、通説に基準に従うならば、これが弁論主義違背とはならなそうです。
しかし、大審院は、原審の判決を破棄し、「XとA(Y)の特約は、当事者の主張に基づいて確定すべきものである」としました。
このように、この判決については「間接事実であっても当事者からの主張を必要とした」と読むことが出来ます。
2 最判昭33.7.8
次に、最判昭33.7.8(百選4版47)を挙げることができます。
この判例は知っている人も多いのではないでしょうか。
XはYとの間の本人契約の締結を主張していたが、原審は代理人を通じた契約が成立したと認定した
という事案です。
ここで、代理人によった意思表示か、本人による意思表示かは法律効果の発生に直接必要な事実ですから、裁判所は、主要事実を当事者の主張なくして認定したということになります。
しかし、最高裁は、弁論主義違背はないものとして、上告棄却としました。
このように、この判決については「主要事実であっても当事者からの主張を必要としない場合がある」と読むことができます。
3 学説の展開
「弁論主義は主要事実について適用される」という通説を信じてきた法曹関係者は、こんな判例がだされると、何を信じていいかわからなくなります。
そこで、以上のような判例をきっかけに、主要事実・間接事実の区分は弁論主義適用の基準となっていないのではないか、弁論主義適用の基準は他にもとめるべきではないか、といった議論がなされるようになりました。
そこで、通説とは別に、以下のような学説が生まれることになります。
①説(田尾説)
[結論]
主要事実たると否とを問わず、訴訟の勝敗に影響する重要な事実について弁論主義の適用がある(当事者の主張のない事実を認定してはならない)
[理由]
「何を主張すべきかを定めるに当たっては、主要事実か間接事実かの区別よりも、その事実が当該訴訟との関係において、どれだけ勝敗に影響する重要な事実、つまり、真の争点を構成しているか、が基準になるべき」である(田尾桃二)。
②説
[結論]
主要・間接問わず、原則として、事実はすべて当事者の主張のあることを要する
[批判]
弁論主義の対象となる事実が広きに失する。
③説(新堂説)
[結論]
当事者の主張を必要とする主要事実は、法規から形式的に定めるのではなく、その法規の立法目的、当事者の攻撃方法として明確かという観点、認定すべき事実の範囲が審理の整理・促進から見て明確であるかという配慮に基づいて、具体的類型ごとに機能的に定めていくべきである。
[批判]
民事訴訟が法規を出発点とした論理構造を持つものである以上、それと離れて主要事実を定義していくのも妥当でない。
④説(高橋等)
[結論]
①説を基本としつつ、少し変えて、主要事実・間接事実の区分は弁論主義適用の一応の基準として残しておき、重要な間接事実には弁論主義が及び、主要事実のうちでも重要でないものには弁論主義が及ばない
4 どの学説を採るべきか
さて、通説とは別に、様々な学説が登場してきたわけでありますが、最終的に受験生はどの学説を採るべきなのでしょうか。
①説、②説、③説は攻めすぎなものとして除外するとして、問題は④説の妥当性です。
ロースクールでは、「重要な間接事実」にも弁論主義の適用があるという、④説をとるべきとして教わっている人も多いのではないでしょうか(僕の通っていたロースクールの先生も④説とのことでした)。
しかしです。僕としては、やはり従来からの「通説」をとることがベストであると考えます。
それには以下のような理由があります。
司法試験では、「裁判所が認定した事実が『主要事実』にあたるか否か」という点の論証に点数がふられていることが多い気がしています。
とすれば、「主要事実に弁論主義が適用され、間接事実には弁論主義の適用がない」として割り切る通説の理解の方が好ましいものと思われます。なぜなら、④説の理解に立った場合、裁判所の認定した事実が主要事実であろうとなかろうと、その事実が「重要」な事実と認められた以上、(たとえそれが間接事実であったとしても)弁論主義の適用が認められることになりますから、その事実が主要事実なのか間接事実なのかという議論に特別の必要性がなくなってしまうためです。
そこで、僕としては、やはり通説で書くのが無難だろうと感じています。
5 通説に立った場合の問題点と解決策
さて、僕的には「弁論主義の適用対象は主要事実である」という通説に立つべきと考えるわけです。
……はい、皆さんの言いたいことはわかります。
そう、通説をとった場合、事実上勝敗を決するような重要な間接事実を、当事者の主張なくして裁判所が勝手に認定することを野放しにしていいのか、という問題ですよね。
しかし、この事態って必ずしも弁論主義の問題として対応する必要ないんじゃないでしょうか。
「釈明義務違反」って構成でいけると思いませんか?
ここで、青山教授の説を紹介します。
青山説
[結論]
弁論主義の適用は主要事実にのみ限るという命題をやはり維持すべきである。
そして、重要な間接事実は、当事者からの主張がない場合に釈明をせず、判決の基礎とするならば、弁論主義違背とはならないものの、釈明義務違反として破棄差戻しになる。
どうでしょう、すごいすんなりきませんか?
僕としてはこの考え方が受験生のスタンダードになるべきと考えています。
第4 青山説と判例との整合性
お気づきの方も多いと思いますが、青山説って、つまりは[通説+釈明義務違反]という処理を述べているだけで、真新しい説というわけではないんです。
ということは、やはり、先程の判例との整合性が気になるところです。「通説によっては判例の内容を説明することができないのではないか」ということで様々な学説の論争が生まれたわけですから。
さて、青山説(通説)と判例の内容は矛盾するのでしょうか。
まず、大判大5.12.23については、当事者の主張なくして「特約の存在」という間接事実を認定したことが「弁論主義違背」とされたわけでありますが、青山説(通説)にしたがえば、これは(釈明義務違反とはなり得るにしても)弁論主義の第1テーゼに反しませんから、弁論主義違背とはいえないことになりそうです。
また、最判昭33.7.8については、当事者の主張なくして代理人を通じての契約という主要事実を当事者の主張なくして認定したことを「弁論主義違背ではない」としたわけですが、青山説にしたがえば、これも弁論主義の第1テーゼに反しますから、「弁論主義違背ではない」というのは誤りとなりそうです。
そこで、この判例の内容と青山説との整合性については、以下のような回答が考えられます。
① まず一つ目は、ずばり
「両者は整合しない。その整合性も説明できない。だからこの判例は間違い!」
という説明です(笑)いや、実際こういう風に説明されることもあるんです。
② もう一つは、
「判例は、本来は弁論主義違背がない(裁判所としては間接事実を認定したにすぎず、当事者の主張なくして主要事実を認定したわけではない)のに、その認定が当事者に不意打ちとなるような場合(弁論権違背がある場合)をすべて『弁論主義違背』と片付けてしまっていると捉える」
という考え方です。
判例の正当性を肯定するためには、②説の説明もわからないではないです。
皆さんは、「弁論主義」の前提として「弁論権」という言葉を知っているでしょうか。
弁論権とは、弁論主義の「高次の概念」といわれているもので、「不意打ちの禁止」を内容としています。すなわち、不意打ち禁止の要請は、あらゆる手続において保障されるべきものである、という考え方で、不意打ちがあればそれはすなわち、全て「弁論権」違反となる、というものです。
この弁論権という概念はドイツの考え方らしいですが、日本の民訴法も(弁論権、という言葉を使うかは別にせよ)、この考え方を継承してます。
すなわち、弁論主義の機能は不意打ち防止にあるとして、弁論主義違背があるかどうかの判断においては、不意打ちがあるかどうかが実際にはポイントになると考えられているのです。
つまり、弁論主義の機能は不意打ち防止にあるのだから、間接事実の認定であっても、それが不意打ちとなるならば「弁論主義違背」というし、主要事実の認定であっても、それが不意打ちとならないならば「弁論主義に反しない」という、ということです。
この「弁論権」の考え的な実質的な振り分けもわからないではないです。
まぁ、でも、「主要事実であっても、それを認定することが不意打ちとはならない場合に、当事者の主張なくして裁判所が主要事実を認定すること」を「弁論主義違反はない」と表現するのは混乱を招くのは事実でしょう。
正確には、「弁論主義には反するが、不意打ちがないので原判決破棄理由にまではならない」という表現にとどめるべきでしょう。
この点は、畑教授も、弁論主義の根拠論として第1テーゼと私的自治の結びつきを論ずるのであれば、「不意打ちがないから弁論主義違反ではない」といった論じ方はすべきではない、と述べています。
以上のように、一応は、青山説(通説)にたったとしても、上記判例との整合性は保たれているとの説明は可能です。
もっとも、整合性は認めれない!判例の表現は誤りだ!という考え方でも全然いいと思います。僕の信頼している大先生もそのように説明しておりました。
いずれにせよ、皆さんは同様の問題が出た場合には、
❶ 「間接事実の認定であるから、弁論主義違背ではないが、釈明義務違反であ
る」
❷ 「主要事実の認定であるから、形式的には弁論主義違背となるが、これを認定
することが不意打ちとはならないので、破棄差戻し事由とまでは考える必要はな
い」
という論じ方をすればよいのです。
第5 まとめ
以上、2回にわたり弁論主義についてのお話をしました。
ここは、僕が示した考え方でもいいですし、とにかく、自分が一度決めた考え方を貫き、論理構成を一貫させる努力をしてください。
自分のアイデンティティ的なのを確立できれば、回答は容易です。
追伸
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